車を手放す不安
車を手放した。手放す際はかなり悩んだ。急に体調を崩して病院に行く必要ができた時、車がないと不便じゃないか。車がないと日常生活に支障をきたしたり、行動範囲が狭くなるのではない。好きな時に好きな場所に移動するという自由を失うことになる。それはストレスなんじゃないか。いい年した大人が車も持たずに生活するなんて、そもそも変じゃないか。車を持っていないことをどう説明すればいいのだろう。
それでも車を手放した
それでも車を手放すことにした。一番大きな理由は、車に乗ったり、車を持ったりすること自体に、ストレスを感じ始めていたからだ。車に乗っている時、ふと苛立つ気分に包まれている自分を意識した。混雑した道、必要以上に遅く走る前方の車や理由もなく煽ってくる後方の車に苛立つ自分。常に信号や交通ルールを意識し、交通事故を避けるために無意識に強いられる緊張感。値上がりし続ける燃料費。週末以外に乗らないのにかかり続ける駐車場代。何より、そもそも車自体にあまり興味関心がなく、車を移動手段としてしか見なしていない自分。
だから、手放すことで不便や不自由を感じることは確実にあるだろうとは思いつつ、その時は不便や不自由を感じればいいじゃないかと思って手放した。どうしても車が必要なら、その時また買えばいい。とにかく一度、車を持つことで感じている煩わしさから離れてみよう。手放してしばらくの間、自分の生活にどんな変化が起こるのかと、少し怯えながら過ごしていた。強烈な後悔が襲ってくるのではないか。不便さや不自由さが大きなストレスになって、心のバランスを崩すのではないか。そしてすぐに新しい車を買い求めにいくのではないか、と。
手放して得た開放感
でも、時は穏やかに過ぎていき、さらに時間が経つ程に、気持ちにゆとりが生まれてきたように思う。車に乗ることで感じていたストレスや緊張感は実際に大きなものだったと感じている。今では、手放すときの悩みや心配も含めて、車を維持していること自体に大きなエネルギーが注がれていたことを実感する。手放したその時から、運転時の緊張やストレス、車検やタイヤ交換の費用、駐車場の維持、給油の手間という一連の煩わしさから解放された。車を手放すことで、これらの煩わしさから解放され、自由で平穏な時間を取り戻せたように思う。車を持たないことは人から見たら変かもしれないけど、まあどうでもいい。車を持たないことについても、誰に何を説明する必要もない。
持つことで抱えていた煩わしさ
逆にいうと、車を持つことで、これらの煩わしさを抱えていたということに気づいた。便利さや自由や安心を維持していたと思っていたけれど、むしろ自分から時間やエネルギーを奪い、心の余裕を奪い、その上大きな費用を発生させていたとも言える。持つことで失っていたわけだ。持つのをやめることさえ、怖いと感じるようになっていた。
手放すことは得ることなのかもしれない
これらは、車を手放すことで感じたことだけど、他にも手放すことで得られるということはあると思う。なくすことで得られる開放感の良いところは、なんの努力もなく、ずっと続くことだ。ただ煩わしさが消え、何の手間も努力も我慢もいらない。穏やかな時間が、ただそこにある。逆にいうと、ものごとを得るためには努力が入り、維持することに手間がかかり、守ることに我慢が必要となる。だから、あまりものごとに執着しないで、どんなものも環境も借り物のように感じて生きていけたら、ストレスはずっと少なくなるような気がする。車がなくても、本当に急ぎでどこかで行く必要がある時は、タクシーに乗ればいいわけだから。その方が健康的だと思う。気楽に行こう。