想定外という言葉がある。官公庁や企業で不都合な事態が発生した際に、お偉方が出てきて、不具合の原因を説明する時によく使われる言葉だ。「事前に確認をしていたものの、想定外の事態が発生したためにこのような結果となり、誠に遺憾に思う次第…云々」。誠実な表現を装ってはいるが、要は「通常では考えられない状況が発生したのだから、我々に非はない。できるかぎりの対策はとっていた」ということである。
想定外なら仕方がない。通常では考えられない状況なのだから責められても困る。そういう理屈が並べられる。このような発想は、はたして健全だろうか。将来、別の想定外の事態が起きた時にも、自分がそのような事態に巻き込まれた時にも、受け入れられるべき発想だろうか。
想定外のことは、常に起き続けている。携帯電話が一般に普及し始めたのは1990年代で、個人がPCを使うようになったのは1995年のwindows95の登場がきっかけだ。でも、今やスマートフォンやタブレットが、携帯電話やPCの機能を担っている。ワールドトレードセンターのテロも、東日本大震災の発生も、コロナによる外出自粛も、予め予定に組み込んで生活していた人はいない筈だ。こうした想定外の出来事は、それまでの常識や価値観を大きく変えてきた。おそらく、これからもこうした決定的な変化は起こるし、今の常識や価値観もその度に変わっていく。
人は将来を予想できない。こうした前提のもとで人がとりうる最大の対策は、予想外のことが起きても、壊滅的な被害を招かない仕組みをつくることだ。米国でサブプライムローンがバブルを迎えていた頃、モルガン・スタンレー社は低格付け債権への投資に慎重な姿勢を崩さなかった。逆に、リーマン・ブラザーズ社は、投機性の高い取引に積極的に進出して業績の拡大を目指した。やがて想定外の事態が起き、リーマン社は破綻した。予想外のことが起きることへの想像力の違いが、両者の明暗を分けたように思う。
多くの物事は過去の事例を基準に設計されている。耐震性基準も、津波の防波堤の高さも、信用取引における証拠金の額も、これまでの最悪の事例に基づいている。でも、この基準を現実が上回らない保証はない。大切なのは、どんな状況でも壊滅的な結果を免れるための余裕を設けておくことだ。人が未来を予想できないことを自覚し、謙虚な態度を保つことだともいえる。そうであれば、「想定外だった」と呟くことは、とても無責任で、品位と想像力を欠く態度に見えてくる。